2014年12月16日火曜日

禅修行

京都府亀岡にある臨済宗宝泉寺にて5泊6日の修行をしてきました。

5:20 振鈴の音で起き太極拳から一日が始まります。 坐禅、朝課、掃除、粥座(朝食)、作務(畑仕事、境内掃除など)が終わると11:30。 シンプルだけどとても充実した午前中! 帰ってきてからも朝の掃除は日課にしてます。 掃除ってこんなに気持ち良いなんて知らなかった。

▲お寺からの見晴らし。近くにはトロッコ亀岡駅があり のどかです▲
▲男性のみ禅堂で寝起きする。起きて半畳、寝て一畳▲ 


 ▲臨済宗大本山 天龍寺▲


食事も坐禅と同じ修行としていただきます。 姿勢を正し、音を立てず、残さず食べるのは当然だけど、食べる速度を男性の速度に合わせるので味わっている暇がない。 美味しいなどと分別せず、食材に対する感謝に尽きるのでしょうか。 普段ご飯を作る側としては もっと味わって食べたいけど^^; 食事はシンプルでとても美味しかったなぁ~ 食べ終わるとお茶碗にお湯を注ぎ 沢庵で御椀についた汚れを削ぎ落とし最後に飲み干します。これが一番好きでした。飲み干した後は布で拭くだけなので 梅雨や夏の時期は気になるかも・・・

▲女子寮の前に干してある沢庵用大根。てっきりすべて自給自足かと思いきや1日1本半消費するため足りないそう▲


苦しみを抱えながら生きるのが人生。みな苦しみを抱えながら今日も生きている。今までわたしは苦しみが無いと思っていたのは向き合わず逃げていたという事に気が付きました。

今の時代、便利でもあるが誘惑が沢山あります。 苦しい時逃げるのは簡単だけど、 逃げたという事実は変わらず いつまでも自分につきまとうのです。

明智光秀が本能寺へ向かう時に通った峠を登っている時 昔先生か誰かが「人生は山登りのようなもの」と言っていたことを思い出し腑に落ちました。



「行雲流水」
”空行く雲や流れる水のように、深く物事に執着しないで自然の成り行きに任せて行動するたとえ。 また、一定の形をもたず、自然に移り変わってよどみがないことのたとえ” 

この禅語も今回の修行で気付かされました。 自分で自分を苦しめていたということ。 それがすべて、という考えに偏ってしまい思い通りにいかず焦り、苛立ち、悔しさ、恨みでいっぱいになっていたのです。

すべての思い込みを捨てた時 わたしの人生で経験した沢山の点が薄い線でつながってきました。 
人の為に何か役立ちたい。わたしに出来ることは? 自分の能力、才能を活用して その先にあることと共に一生懸命生きること。 すべてはひとつ Oneness で生きていきたい。

▲写経は書く瞑想▲


一度消えかけた灯だけど この先もう弱まることはありません

▲修行後▲

次回のWSでは この修行で吸収した禅のエッセンスも入ってくるかもしれませんね。 乞うご期待!
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第3回Ananda Josei Circle

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